“母性的”な日本企業

河合隼雄先生は、日本の社会を「母性社会」と呼んだ。ごくかいつまんで言うと、以下のような意味だ。

母親は、自分の子供であれば皆同じように可愛いし、全員に同じように期待する。たとえ成績や素行が悪い子がいても、大器晩成型だと思って期待しつづける。どんな子であっても諦めはしないし、もちろん決して見放したりもしない。子供それぞれの適性や個性や意思に応じて成長すればよいという発想ではなく、自分の子には皆同じような道を同じように歩んでもらいたいと願うし、だから差が生じないようにと同じように扱う。

母親は、場を重視する。それぞれが言いたいことを飲み込み、やりたいことを抑え、場を平穏に保つために、「みんないい子」であることを暗黙的に要求し、何もない平穏な状態を良しとする。場を均衡に保つには、序列も重要になる。兄は兄らしく、弟はそれらしく振舞うようにすることで場が均衡する。タテの関係を作ることで、場が保てるという原則を学ばせる。もちろん、父親も母親が作ったこの均衡の中に取り込まれている。父親は、タテの関係の一員であり、それらしく振舞うことで均衡を保とうとする。父親が家長のように、亭主関白のように見えたとしても、それはあくまで“見せかけ”の強さであり、母親が作り出した場の均衡にとって都合がいいからに過ぎない。

同じように日本の社会では、それぞれが能力や個性の違いを発揮しようはせず、属する組織や場がつつがなくまわっていくように振舞おうとする。個性的な振る舞いや予定と調和しない言動は、自分勝手と評価されてしまうので、皆が抑制的になる。組織や場は、母親が子に対してするように、すべての人を包み込み、すべての人に同じような期待をし、不公平がないよう同じように扱う。場の均衡を保つためにはやはり序列が重要で、年齢や先輩・後輩といったタテの関係が幅を利かせる。抑制的言動を強いられるのはストレスではあるが、一方で、たとえ失敗したとしても、場や組織から切り離されることはなく、いつまでも期待をしてもらえるから安心だ。

これに対して、欧米の社会は「父性社会」であって、生来の能力差や様々な個人差を前提にしており、したがって期待の内容は人によって異なる。母性のように皆を取り込んでいくのではなく、各々に自立を求め、個性に応じて生きよと切り離していく。結果に対しては、信賞必罰を明確に行う。学校に「飛び級」があるのも当然のことであるし、エリートは真のエリートとして(日本のような単なる高学歴者という意味ではなく)、現場の職人はその専門性を活かして、それぞれが個性を活かして自分らしく生きることを求められるから結果として人生は多様になる。

●母性的な日本企業
このような社会だから、日本の会社が母性的であるのも当然だろう。処遇システムは、「同一属性・同一期待・同一処遇」となる。同じ属性(性別、職階、年次など)であれば、同じように期待をされ、同じように処遇される。能力にも適性にも個人差があるのだが、それは軽視され、多少の失敗を犯してもそれまでと変わらず期待されつづける。「皆がかわいい」「皆がいい子」という母性的な処遇システムである。正社員という日本独特の無期雇用制度は、母親がすべての子供にいつまでも期待し続けるのと似ている。「無限定な働き方」も同様だ。場の均衡を保つことに価値を置いているのだから、個々の職務や責任を明確にする自立した働き方よりも、そのときどきの状況に応じて皆が助け合い、言われれば何でもやる、どこへでも行くような働き方が奨励されるのは自然なことだ。年功的処遇も、場の均衡を保つための序列づけとしては合理的である。

マネジャーは、母親のようになる。どのメンバーも同じようにかわいいし、全員に同じように期待し、全員にチャンスを与え、全員に成長してもらいたいと思っている。仕事の与え方や接し方は、能力差や適性ではなく、年次や属性などによって決まる「序列」に応じて変える。場の均衡を保つことに高い価値を置いているからだ。多様であるより、同質であるほうが場の均衡を保ちやすいから、違いには焦点を当てないようにする。メンバーの一人ひとりが落ちこぼれないように気を配るのが大切であると考えるので、高い目標は掲げないし、違いによって生じるシナジーも生まれにくい。マネジャーの目線は、常に下向きであり、力は常に底上げのために使われる。

●母性的であることの結果
このような日本企業においては、抑制的言動を強いられることによるストレスが大きい。各々の違いによる軋轢がストレスとなる欧米の組織とは、対照的だ。思ったこと、言いたいこと、やりたいことをそのまま言動に移せない状況がストレスとなる。どれだけ優れた能力であっても結果を残しても、母親が他の子供に配慮して褒めすぎないようにするのと同じで、飛びぬけて良い評価をしたり選抜的な処遇や育成をしたりはしない。本人にも、胸を張って「どうだ」と言ったりはせず、喜びを顔に出したりもせず、謙虚に「まだまだです」「みなさんのお蔭です」と言う姿勢が求められる。

コミュニケーションも複雑になる。全員が同じように期待され、皆で場の均衡を保ち続けるためには、同じ情報を皆で共有している状態を作らねばならないから、報告・連絡・相談の量が非常に多くなる。同じ部署だけでなく、関係する部署や担当者などにも伝えなければならないし、その順序や伝え方にも気を配らねばならないから、相当に高度な“仕事”であったたりする。情報流通の達人になることが、出世の近道だったりするのはそのせいだ。職務や責任が明確にされている結果、誰に何を伝えればいいかがわかりやすい欧米企業とは対照的である。

一方で、母親が自分の子供たちを包み込んで守るように、従業員全員を包み込んで守っているのに、日本企業の従業員はモチベーションもエンゲージメントも高くない(と言われている)のは不思議である。安心・安定を与えてくれる母のような存在である会社に所属しているのに、忠誠心ややる気が湧いてきにくいのは何故か。これも河合隼雄先生の「日本の男は永遠の少年だ」という指摘によって説明できる。

日本の男は、心理学で言う“母親殺し”(母という存在に依存する状態から脱し、精神的に自立し一人前になること)ができない人が多いという。同様に、日本企業の多くの社員は“会社殺し”ができず、いつまでも会社に依存したままであるのだろう。母親への本当の感謝や心からの恩返しは、依存した状態の少年にはできない。“母親殺し”に成功し、自立した個となって初めて母への本当の感謝の念が湧き、恩返しという行動に移せるというものだ。(一人暮らしを始めたり、子を持ったりして、はじめて母親への感情や視点が大きく変化する。)忠誠心ややる気が湧いてくるのは、これと同じで、“会社殺し”に成功し、自立した個となったときだ。母性型の企業であればあるほど(社員をかわいがり、包み込めば包み込むほど)、社員が自立から遠のきがちになる。その結果、いつまでも依存して甘えている子供のように、本当のやる気や心からの忠誠心が高まらないということになってしまう。

ダイバーシティが進まないのも、母性的であるがゆえだろう。すべての成員を平等に包み込み、場の均衡を重視し、そのために属性による序列をつけて、能力差や個性といった違いの発揮ではなく、同質的で抑制的な言動を求めるのが母性の特徴であるから、母性的とは、すなわち逆ダイバーシティのようだ。(日本の企業の「母性的」な仕組みやマネジメントが、「女性」の活躍を阻んでいるのは逆説的で興味深いが。)

とはいえ、社会も企業も「父性的」に変わることはほとんど無理だろうし、それによって失うものも小さくはないはずである。河合先生も、「母性社会・日本の病理」という著書名ではあるが、父性的に変わるべきだとはおっしゃっていない。大切なのは、企業組織の変革や処遇制度改革などの検討に際しては、変えることが出来ない我が国の「母性的な部分」に対する十分な自覚が欠かせないということだろう。

「採用学」批判

(本稿は、日本における新卒採用に限定して書いています。)

「採用を科学する」という話がある。担当者の勘や経験に頼るのではなく、採用の各プロセスを数値化し、分析して、理論化・体系化を図り、より効果的な募集・選考・定着を実現していこうという考え方だ。昨今、データを分析すれば必ず結果を左右している重要事項が見いだせ、上手くいく方法を発見できると考える傾向が強まっているように思うが、それの「新卒採用版」と言ってよい。

「採用を科学する」とか「採用学」と聞いて、直観的にその行く末が見通せるのは、「明らかにされたり、改善したりできる部分」と、「結局は、担当者のセンスや、各々の職人技や真似のできない個人技によって採用の成否が決まっているのだ、という身もふたもない結論が出てしまう部分」に分かれるだろうということだ。しかも、前者について言えば、それは、多くの人が何となくそう思っていたことを実証したに過ぎない内容に終わっているはずだ。つまり、「明らかにされたり、改善したりできる部分」があったとしても、恐らくそれらは実務家からすれば、「そりゃそうでしょうね」「出来るならとっくにやっているよ」という話でしかないだろう。たとえば、「経営が採用にコミットすればするほど、うまくいく」「人事部だけでなく、全社で採用に関わっていくほうが、うまくいく」といったことが分かっても、実務家の心に響くことはない。

このような行く末を予想する理由は、「営業」の分野でもそのような結果になっているからだ。マーケティング、プロモーション、顧客心理、コミュニケーションなど、営業に関係する理論や知識は実にたくさんある。経営学・心理学・社会学などの研究者が、それぞれの立場からアカデミックなアプローチを行ってきた結果である。様々な実務家がその経験から編み出した知識・知恵にも、広く流通しているものが多くある。では果たして、これらの知見をより多く学べば学ぶほど、営業の成果が上がっているという事実はあるのだろうか。また、それらの知見は、営業という仕事で成果を出すための重要事項をしっかり探り当てたと言えるだろうか。容易に分かるのは、それらの知見は確かにある程度は役に立つのだが、現実の成果はそれ以外の多くの要素に左右されているということである。実際に、そのような知見にはいっさい見向きもしていないのに、大いに成果を出している組織・個人は多い。そんな実態を見て、アカデミックなアプローチの限界を知り、得も言われぬセンスのようなものの力の凄さを見直さざるを得ないというのが、今の多くの経営者や営業関係者の実感だろう。

営業だけではない。ビジネス全般に関して、最近、アカデミックなアプローチでビジネスを解明できる(ビジネスを上手くやっていける)わけではなく、結局のところアートに属するようなこと、いわゆるセンスに左右されるところが大きい、と考える人も少しずつだが出てきているようである。「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」(山口周)や「経営の失敗学」(菅野寛)が売れているようだし、戦略論で知られる神戸大学の三品和広教授や一橋大学の楠木健教授も、経営者のセンス、属人的な個性や人間性がビジネスの結果に大きな影響を与えると強調している。そんな中、あえて学問的アプローチをもって採用を科学しようというのは意欲的ではあるし、新しいから(日本にはあまりなかったから)目立つのだが、上に述べたように行く末が見えてしまっており、実務家が興味を示したところで大して有用とは言えないだろう。

採用は、その成果が担当者のセンスに大きく左右される、極めて属人的な仕事である。たとえば、昔から面接に関して「自社で活躍している人材の要件に照らして、採用すべき人材の評価の観点や基準を明確にする」「思考や行動の特性が分かるような質問を用意する」「質問を構造化する」といった要諦がある。これらを学んで実施してきた会社も多いはずだ。ところが、そんなことで結果が良くなったりはしない。依然として、人の見極めは難しいし、欲しいと思った人材が他社に流れていく。これと思った人材が、期待したように定着し成長し活躍する確率が高まったわけでもない。

そもそも、あの河合隼雄先生でさえ「人の心などわかるわけがない」と述べておられるのに、私たち普通の人間が他者を理解できるはずはないのだが、さらに、新卒採用は学生時代の活動から仕事の能力を類推する(それも短時間で)という難事に取り組むわけで、多少、質問が上手になったからといって、人間という複雑体の前では焼け石に水である。(だから、面接で人を見抜けるなどというのは冗談にしか聞こえないし、河合先生がもし目の前におられたら恥ずかしいことだ。)

また、質問が上手いからといって、学生から重要な内容を聴き出せるわけでもない。なぜなら、学生は、信頼できる相手、親しみある面接官だと感じない限り、本当のことを十分な量でしゃべってはくれないからだ。いくらいい質問をしたとしても、その表情や身振り手振り、選ぶ言葉、醸し出す空気などが学生の気持ちを十分に和ませることができなければ、回答する情報は割愛された抽象的な内容に終わるだろう。もちろん、面接の質問が上手になっても、自社に入社を決めてくれるわけではない。入社の決め手は、面接官の質問力などではなく、たいていの場合、面接官が学生に与える印象の良し悪し、その場に流れる空気から感じる相性の良さ、提供する情報の個別性と表現力といったものになる。

要するに、面接において最も大切なのは、学生それぞれが心地よいと感じる関係や距離を測り、それぞれが知りたい情報を分かりやすく、適切な言葉を選んで伝え、そこを楽しく有意義な場にし、そのプロセスの中から相手を知り心をつかむ力である。そして、それはデータで分析して分かるものではなく、理論やフレームで学べるものでもなく、担当者のセンス、個人技としか言いようがないものなのである。

面接だけではない。採用担当者には、多様な側面を持つ自社をどう伝えるかというコンセプトメーカーとしてのセンスがいる。説明会や選考の場面では、参加者目線で居心地のよい空間を作り上げ、細やかな目配り気配りができるイベンターとしてのセンスも求められる。説明会では、参加者の人数や属性などの違いに瞬時に対応し、話す内容や話し方、自らの姿勢や見え方、参加者との関わり方も変えていく、優れたプレゼンターとしてのセンスが必要である、クロージングでは、互いの一致点と相違点を理解し、時期を定めながら上手な価値交換を通して決断を促すネゴシエーターとしてのセンスが問われる。採用は、営業のように顧客の悩みが明確にある訳ではなく、具体的な商品もなければ、お金のやりとりもない。相手と丸腰で向き合う、実に人間的な部分で勝負するしかない仕事であり、センスとしか言いようがない部分で成否が決まっているのである。そのセンスでさえ、アカデミックなアプローチで明らかにしようとするのが「採用学」だということかもしれないが、ここまで述べてきたようにそれは無理筋というものだ。せいぜい、人材サービス企業の営業ツールの中にエビデンスとして利用されるくらいだろう。

制度改定が、いつも失敗に終わってしまう理由

会社には様々なルールがあり、そのルールに則って運営されている。組織や職務の分掌、業務の遂行・権限・決裁、ヒト・モノ・カネ等に関わる諸規程がたくさんある。人事関連で言えば、等級制度・評価制度・給与制度・報奨制度・福利厚生制度・教育制度や、就業に関わる規則などがある。そして、従業員の処遇や育成、組織の活性化や働き方に関して不具合があれば、これらの制度を変えることによって対応を図る。バブル崩壊までのだいたい右肩上がりに成長してきた時代には、不具合が大きく表面化することがなかったが、それ以降、あちこちに不具合が生じてきたここ三十年くらいの人事は、制度改定の歴史であったと言ってよい。

ところが、残念ながら、ここ三十年で取り組んできた様々な制度改定が功を奏したという実感がある人は少ないだろう。むしろ、処遇や育成にはいっそう困り、組織の活性度は低下し、多様な働き方への対応にも仕組みがついていけていない、というのが多くのビジネスパーソンの感じるところだと思う。なぜ、制度改定がうまくいかないのか。それは、アインシュタインが「我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない」と述べたように、根本的な人事のパラダイム(人や組織に関わる見方・考え方)を変えられないまま、制度改定に取り組んできたことが原因だ。人事が直面する重要な問題を解決するには、その制度を作った時の考え方や見方とは、異なるレベルの考え方を持たねばならない、ということである。

等級制度で言えば、「肩書きや昇格は、働く人たちを動機づけ、働く人たちの目標となる」という考え方が根底にある。男性正社員が戦力で女性はその補助という時代には、その考え方でよかったし、実際に、男性正社員たちは一生懸命に”椅子取りゲーム”に励んだ。しかし今、人生と仕事のバランスを取りたい女性や若者は、そのような椅子には大して興味を持たない。肩書きよりも、職務内容ややりがいや身に付くスキルに重きを置く人も同じだ。このような人たちの中には、肩書きとは「世間一般には通用しない社内幻想」だと見ている人もいるだろう。旅行者が、その商店街だけでしか使えないポイントカードをもらっても意味がないと思うのと同じで、このような人たちには肩書きや昇格は、動機づけにも目標にもならない。等級制度を見直す会社は多いが、依然として「肩書きや昇格は、働く人たちを動機づけ、目標となりうる」という考え方のままなら、小手先の改定に終わり、問題が解決することはないだろう。評価制度は等級制度に紐づいたものなので、これが思ったように機能しないのも当然である。

定期昇給には、「従業員は、この会社で長く働くことを考えている。定期的に少しづつ給与が増えていけば目標を持って働いてもらえるし、長く勤続する意味も感じてもらえる」という発想がある。年功序列・終身雇用の思想そのものである。もっとも、昇給を実施する根拠は、その期間における能力の向上ということになっているが、それは建前に過ぎない。何歳になっても、誰であってもどの期間においても必ず能力が向上するということは有りえないからだ。人材の流動化が進んでいる現代では、最初から転職を含めたキャリア形成を想定している人もいるだろうし、入手できる情報も増えたので、「半年前より数千円上がった」という事実より、「同じような仕事をしている人たちの世間的な給与水準は、どれくらいか」という事実のほうが重要だったりもするはずだ。定期昇給という仕組みが普及した当時と今では、まったく環境が違うのに、いまだに「評価点で1点の差を、昇給額のいくらの差に換算するか」といった些末な制度改定を検討しているようでは、まったく問題の解決にはつながらない。

人材育成では、「若者は未熟で戦力としては大したことがなく、年数を重ねるごとに成長して、強い戦力になっていく」という考え方がある。実際、たいていの会社の研修体系は(無意識に)そうなっているし、仕事の任せ方や裁量も多くの現場で「年齢」や「経験」を理由に決められている。その結果、能力のある若者がその力を持て余し、持て余すだけならまだマシで、手を抜くクセやサボリ癖がついたり、あげくに「自分はまだ若いから能力が足りない」と思い込んでしまったりしてしまう。経験が豊富というだけで上長を任された年配者が、自分よりも能力が高く、伸びしろも大きい若手を指導して駄目にしてしまうケースも少なくないだろう。また、「放っておいたら、従業員は何も勉強しない」という思い込みも根強い。人事が従業員を上から目線で、レベルが低いと決めつけているように見える。これらの結果、年数や階層に連動した、画一的で、「教えるだけで考えさせない」研修が繰り返される。

就業ルールについても、「皆で一緒に来て一緒に変えるのが平等で、職場の士気も保たれる。個人の勝手な都合や振る舞いを許していては不公平感が高まり、一体感が失われる」というような思想がある。朝来たらラジオ体操で始まり、夕方は皆の仕事が終わるまで待って、時どきは飲みにも行くといった昔の職場で支配的だった考え方だ。このような考え方が、出産・育児・介護などで休業するのをはばかられる雰囲気を作り、早く帰れない、有給休暇が取りにくい空気、フレックスタイム、テレワークなどの自由な働き化の導入に反対する人たちの根拠にもなっている。働き方に関わる様々な制度を導入しても、導入しただけで上手に運用されることはないのは、同じような人たちが同じように働き、それぞれの私的な状況は我慢するという、同質性の維持を価値とするようなパラダイムを排除あるいは転換できていないからである。

制度改定は、現状の制度ができた当時のパラダイムはどのようなものだったのか、を振り返る必要がある、そして、そのパラダイムが環境変化に耐えうるものなのかどうかを検討し、もはや通用しないのであれば、新たなパラダイムを言語化しなければならない。その上で制度設計を進めなければ、社内的合意も得られないだろうし、実効性の伴わない仕組みに終わってしまうだろう。

「あなたの強みは何か?」に、どう答えるか。

ドラッカーが盛んに強調したように、個人にとっても組織にとっても、「強み」は非常に重要である。個人にとっては、強みこそが組織における存在意義であり、組織への貢献や良質なキャリアを積み重ねるための手段である。強みがなければ存在意義は希薄になるし、貢献の機会も少なくなるから、キャリアも平凡なものに終わってしまう。組織にとっては、多様な(バラバラの)強みを持つ個人が集まることが重要で、個々が持つ強みが多様であれば、多様な顧客への対応力が高くなり、環境変化に耐える力も強くなる。同じような強みを持つ人を揃えても、顧客の多様性には対応が難しいし、環境変化にももろい。(個々に大した強みがなければ、余計にそうだ。)『強みに集中せよ』は、このような意味である。

そんなことは改めて言われなくても当たり前と感じるかもしれないが、実際に「あなたの強みは何か?」と問われて、即答できる人はかなり少ない。自分の強みについて、しっかり考えたことのない人が圧倒的に多いのが現実だ。これでは、個人としてどのように組織に貢献するかが明確にならないし、強みが曖昧な人たちをマネジメントしなければならない立場の人も難しい。こうなってしまう根本的な原因は、強みがなくても、曖昧であっても仕事と報酬を与えられる日本特有の「正社員制度」にあるが、正社員だから強みを考えてなくてもいいということにはならない。「私の強みは何か?」を問い、言語化して自覚することが、組織への貢献度を高め、優れたキャリアを築くためには最も効果的な方法であるからだ。

では、強みとはどのようなものだろうか。
第一に、差異化されている必要がある。強みは、それが珍しいほど価値が高い。多くの人と同じような分野の知識・技術で、それが多くの人と同じようなレベルであっては強みとは言えない。同じ分野であるなら、その量が違わなければならない。たとえば、普通の人のその分野の知識量が10なら、自分は20にすることだ。多くの人が知らない分野の知識を身に付けるという発想も大切になる。量で差をつけるのではなく、質を変えるというアプローチである。ついつい、皆が知っていることを知ろう、皆ができることを出来るようになろうと考えがちだが、それは強みを作るという発想ではない。独自の製品を作ろうと考えるとき、「他社より安く、他社より小さく、他社より機能を豊富に」といった量で勝負する視点と、「他社商品とは異なる意味やストーリーやデザインを」と質を変える視点があるが、これと同様、自らの差異化を図ることである。

第二に、強みは原則化・抽象化されている必要がある。たとえば、「営業経験が豊富」「総務部長を3年間務めた」「社長賞を3回獲得した」「新サービスを立ち上げた」などは、具体的な事実であり、強みを表現したことにはならない。強みは、それを使えば何度も成果が出せるという再現性と、それは他の分野にも使えるという汎用性が求められる。したがって、成果や経験そのものではなく、それらの原動力となったこと、それらの結果として得られたことを表現しなければならない。キャリアをていねいに振り返り、自分ならではの能力や姿勢やスキルや知識やマインドなどを記述することだ。

第三に、強みは、本人が磨き甲斐を感じるものである。強みと自覚するからには、それを客観的に測ったときのレベルを分かっているだろうし、深さや難しさ、課題も見つかっているのが普通だ。もうこれで十分だと満足しているようなら、おそらくそれは強みではない。勉強すればするほど、自分が知らないことがいかに多いか分かるのと同じで、強みと言えるレベルにあるなら、その未熟さや改善点がいかに多いかが理解できるようになるはずだからである。また、強みによって成果を残し、組織に貢献できている実感があるのなら、さらにその強みを磨きたくなるのは当然だ。自らのレベルを客観視し、課題も見えており、磨き甲斐や磨く喜びを感じているなら、それは強みと言えるだろう。

第四に、強みは、周囲との認識の一致が欠かせない。自分は強みだと思っているが、周囲にはそういう認識がないという状態では、活かそうにもそういう場や役割が与えられない。周囲が強みだと思っているのに、本人にはそういう認識がないという場合では、活かしどころにズレが出てしまい成果につながらない。両者ともに気づいていない強みというものがあれば、実にもったいないことになってしまう。つまり、強みはジョハリの窓で言う「開放の窓」にあって初めて、成果や貢献につながっていくのである。メンバー間の深いコミュニケーションを通した十分な相互理解は、互いの強みの発見と活用に欠かせないということになる。

「差異化」「原則化」されており、「磨き甲斐」を感じ、周囲との「共通認識」があるものを『強み』と呼ぶ。「私の強みは何か?」という重要な問いへの答は、この4点をクリアする必要がある。正社員制度や職能資格制度の中でほとんどなされることがなかった問いであり、コモディティ労働者を決め込んでいる人にとっては必要を感じない問いでもあるだろうが、近い将来、この問いが人員配置や育成、評価・処遇の軸になるはずだ。ダイバーシティの目的が「雇用の多様化」から「強みの多様化」の段階に移行し、賃金が「時間」から「能力(強み)」へのリンクを強めるようになるだろうと思われるからである。

働く人の意識も変わってきている。会社を変わることを視野に入れたり、あるいは生涯現役で働こうとするなら、強みがもっとも重要であるのは自明のことだし、ワークライフバランスを実現するためには、拘束時間の長い働き方よりも、強みを活かして働くのが良いに決まっている。昇進よりも強みのほうが高い処遇を得やすいというケースも見られるようになってきた。今後はますます、強みを活かして働こうとする人が増えていくだろう。
自らの強みを、的確に表現すること。どのような働き方を選択するにせよ、これが重要な時代を迎えているのである。

ダイバーシティと職能資格制度の相性の悪さ

人事とは、外部環境の変化に対して、自社の組織や人材を最適化していく機能である。時代が変われば、政治・経済の状況や技術・知識、市場や顧客は変化していく。これらの変化に対して、組織や人材をどのようにすれば十分な対応ができるのかを考え、実践するのが人事部の役割だ。

現代の市場や顧客の特徴の一つは、多様化である。皆が同じように生き、同じようなモノを欲しがった高度成長期やバブル期とは違い、様々なライフスタイルが生まれ、欲しいモノや大切にしたいことがそれぞれに異なる時代になった。このような様々な人々の欲求や視点や価値観を十分に理解できなければ、商品やサービスは選ばれなくなるし、企業としてのありようや行動にも共感は得られない。

だから、多様化した市場や顧客に対して適切に対応するには、様々な欲求や視点や価値観を理解できる組織に変える必要があり、そのためには多様な人材を揃え、活かさなくてはならない。これがダイバーシティの本質であり、目的である。女性の活躍や登用、外国人や高齢者、障碍者の雇用などは手段に過ぎない。ダイバーシティ(&インクルージョン)が実現した状態とは、女性等の雇用・活用・登用ができていることではなく、多様な人材と多様な人材を活かす組織が機能した結果、市場や顧客の多様性に十分な対応ができるようになった状態なのである。

単に女性等の活用・登用が進んだ状態が、ダイバーシティの実現ではないことは、早稲田大学大学院の谷口真美教授による「ダイバーシティの5つの段階」が分かりやすい。

  1. 抵抗段階:違いそのものを認めず、多様性の存在を拒否する。当然、何のアクションも起こさない。(男のやり方、見方、働き方に合わせろという状態。)
  2. 同化段階:表面的には多様化を受け入れるが、本心では認めていない。(世間で言われているから、とりあえず女性を採用する。「女性活躍は大切だ」と言うが、本音は「人手不足」。)
  3. 多様性尊重段階:違いや多様性の存在は認めるが、それにどんな価値があるのかは分かっていない。(女性もとりあえず機嫌よく働いてもらえたらいい。制度面で配慮しよう。)
  4. 分離段階:違いに価値を見出す。マイノリティ・チームで、従来にない視点を発信してもらい、活用しようとする。(女性チームを組織して、女性向け商品の商品開発をしてもらう。)
  5. 統合段階:違いを活かす。異なる視点・発想を大切にし、マジョリティとマイノリティの区別なく、日常的に自然に多様性を成果に結び付けようとする。

これを見れば、日本企業はおおむね2や3の段階にある。さらに、段階を踏んでダイバーシティを進めていく必要があるが、それには単なる啓蒙や意識改革だけでは無理がある。日本企業の伝統的な「職能資格制度」が、根本的な障害となっているからだ。

●職能資格制度とダイバーシティの相性の悪さ
職能資格制度は、特定の専門的業務やそれを実行する能力ではなく、“汎用的”な職務遂行能力の発展段階(レベル)を定めて等級化し、それに基づいて人を処遇する日本独特の仕組みのことである。欧米の職務(仕事)を基本に考える仕組みでは、「何ができるか、どんな仕事ができるか」で処遇されるが、職能資格制度では「どういう等級(レベル)の人か」で処遇がなされる。処遇の高低は、欧米では“能力”次第だが、日本では“等級”次第となる。汎用的な能力を身につけるには、経験年数が重要になる。いくら特定分野の能力向上に努め、その分野で大きな成果を上げたとしても、汎用的な能力が認められない限り職能資格制度では評価されにくく、汎用性のあるゼネラリストになるためには年数がかかってしまう。

等級の定義(評価基準)は、どんな部署・職種でも通用するような汎用的な表現にならざるを得ず、それがすべての人に適用されるわけだから、職能資格制度とはそもそも各々の違いや多様性を排除した考え方を持っている。「何ができるか、どんな仕事ができるか」ではなく、「どういう等級(レベル)の人か」で処遇されるのだから、各々が持つ強み、他の人との違いが評価の際に注目されることはない。組織運営も職能資格制度に則って行われており、部署は等級のバランスがよくなるように編成されるから、少数派は部署内に少数派として閉じ込められてしまう。女性や若手が、上位の等級者に対して委縮して働かねければならないのも、職能資格制度が原因である。

とは言え、ここまで根付いた職能資格制度を廃止すべきというのが暴論であるのは、よく分かる。職能資格制度にも、長期的人材育成、担当を超えた協力体制を組みやすい、柔軟な人事異動が可能といったメリットがあることも事実だ。仕事や担当によって給与が変わるとか、自分の能力をアピールして手を挙げて仕事を取るような行動が、日本人にできるかどうかも疑わしい。であれば、現行の仕組みの中でダイバーシティの段階を進める工夫を凝らすしかない。

●違いの価値を見つめる
ダイバーシティの5段階の3:多様性尊重段階は、「違いや多様性の存在は認めるが、それにどんな価値があるのかは分かっていない」レベルである。確かに、違いの価値、多様性の価値を理解できているか、実感しているかと問われれば多くの人が困ると思う。(私もハッキリ言葉にして言える自信がない。)日本で暮らし、日本企業でずっと働き続けてきて身に付くのは、違いに価値があるという発想ではなく、他者との違いを修正しようとする習慣だからだ。多様性に価値があるというよりも、同質性、全員一致に価値があると考えてしまう。異なる意見があっても、空気を読んで言いたいことをグッと飲み込むのが大切というのが日本人の流儀である。他者とは違うことを明らかにするのは勇気がいるし、場合によっては恥ずかしくも感じる。分離・統合の段階に進むには、このような習慣やマインドを乗り越えなければならない。

「違い」の価値が難しければ、「同じ」にどれくらいの価値があるかを考えてみるのも意味がある。「同じ」同士を交換しあっても何も状況は変わらないから、交換することに価値はない。全員がまったく同じオモチャを持っていたら、誰も交換して欲しいと思わないから、そこでは持っているオモチャに価値はない、というのと一緒だ。また、「同じ」モノを持っているなら、誰が使っても同じ結果にしかならないから使用価値(有用性)もない。そして「同じ」には、希少価値もない。こうしてみると、「同じ」には軋轢が起こらないという意味くらいしかなく、逆に、「違い」には交換価値・使用価値・希少性があるはずで、それを見出そうとする態度が必要だと考えられる。

そもそも、本当に「同じ」なのか?、という問いも欠かせない。厳密に一点の違いもない「同じ」という状況が、そんなにあるのだろうか。「同じ」を装うっているだけではないのか。私たちは、ついつい癖で空気を読み、あるいは習慣として「同じ」に焦点を当ててしまいがちで、相違点を無視・軽視してしまう。そのような態度は、結論を導くには手っ取り早いが、成果につながる有益な議論、本当の意味での合意形成プロセスを経たことにはならない。「同じ」は何で、「違い」は何かを明らかにし、「違い」をチャンスと捉えて焦点を当て、熟議する姿勢が求められる。

多様性尊重段階を乗り越え、分離段階、統合段階へダイバーシティを進めていくには、上記のような二つの取り組みがポイントになる。一つは、「違い」の価値を会社や職場単位で議論し、共有すること。ダイバーシティを教科書的に本や研修といった機会で学んだとしても、「違い」の価値は、自社のビジネスや組織風土に見合った文脈で理解はできないはずだ。次に、「違い」にフォーカスし、それを前向きなきっかけとして議論する習慣である。「違い」を無視して「同じ」であることにしたり、「同じ」を装ったりする習慣を脱し、それぞれが「違い」を表明し、「違い」を議論のチャンスとして前向きに捉えるコミュニケーションを習慣にしなければならない。