ダイバーシティと職能資格制度の相性の悪さ

人事とは、外部環境の変化に対して、自社の組織や人材を最適化していく機能である。時代が変われば、政治・経済の状況や技術・知識、市場や顧客は変化していく。これらの変化に対して、組織や人材をどのようにすれば十分な対応ができるのかを考え、実践するのが人事部の役割だ。

現代の市場や顧客の特徴の一つは、多様化である。皆が同じように生き、同じようなモノを欲しがった高度成長期やバブル期とは違い、様々なライフスタイルが生まれ、欲しいモノや大切にしたいことがそれぞれに異なる時代になった。このような様々な人々の欲求や視点や価値観を十分に理解できなければ、商品やサービスは選ばれなくなるし、企業としてのありようや行動にも共感は得られない。

だから、多様化した市場や顧客に対して適切に対応するには、様々な欲求や視点や価値観を理解できる組織に変える必要があり、そのためには多様な人材を揃え、活かさなくてはならない。これがダイバーシティの本質であり、目的である。女性の活躍や登用、外国人や高齢者、障碍者の雇用などは手段に過ぎない。ダイバーシティ(&インクルージョン)が実現した状態とは、女性等の雇用・活用・登用ができていることではなく、多様な人材と多様な人材を活かす組織が機能した結果、市場や顧客の多様性に十分な対応ができるようになった状態なのである。

単に女性等の活用・登用が進んだ状態が、ダイバーシティの実現ではないことは、早稲田大学大学院の谷口真美教授による「ダイバーシティの5つの段階」が分かりやすい。

  1. 抵抗段階:違いそのものを認めず、多様性の存在を拒否する。当然、何のアクションも起こさない。(男のやり方、見方、働き方に合わせろという状態。)
  2. 同化段階:表面的には多様化を受け入れるが、本心では認めていない。(世間で言われているから、とりあえず女性を採用する。「女性活躍は大切だ」と言うが、本音は「人手不足」。)
  3. 多様性尊重段階:違いや多様性の存在は認めるが、それにどんな価値があるのかは分かっていない。(女性もとりあえず機嫌よく働いてもらえたらいい。制度面で配慮しよう。)
  4. 分離段階:違いに価値を見出す。マイノリティ・チームで、従来にない視点を発信してもらい、活用しようとする。(女性チームを組織して、女性向け商品の商品開発をしてもらう。)
  5. 統合段階:違いを活かす。異なる視点・発想を大切にし、マジョリティとマイノリティの区別なく、日常的に自然に多様性を成果に結び付けようとする。

これを見れば、日本企業はおおむね2や3の段階にある。さらに、段階を踏んでダイバーシティを進めていく必要があるが、それには単なる啓蒙や意識改革だけでは無理がある。日本企業の伝統的な「職能資格制度」が、根本的な障害となっているからだ。

●職能資格制度とダイバーシティの相性の悪さ
職能資格制度は、特定の専門的業務やそれを実行する能力ではなく、“汎用的”な職務遂行能力の発展段階(レベル)を定めて等級化し、それに基づいて人を処遇する日本独特の仕組みのことである。欧米の職務(仕事)を基本に考える仕組みでは、「何ができるか、どんな仕事ができるか」で処遇されるが、職能資格制度では「どういう等級(レベル)の人か」で処遇がなされる。処遇の高低は、欧米では“能力”次第だが、日本では“等級”次第となる。汎用的な能力を身につけるには、経験年数が重要になる。いくら特定分野の能力向上に努め、その分野で大きな成果を上げたとしても、汎用的な能力が認められない限り職能資格制度では評価されにくく、汎用性のあるゼネラリストになるためには年数がかかってしまう。

等級の定義(評価基準)は、どんな部署・職種でも通用するような汎用的な表現にならざるを得ず、それがすべての人に適用されるわけだから、職能資格制度とはそもそも各々の違いや多様性を排除した考え方を持っている。「何ができるか、どんな仕事ができるか」ではなく、「どういう等級(レベル)の人か」で処遇されるのだから、各々が持つ強み、他の人との違いが評価の際に注目されることはない。組織運営も職能資格制度に則って行われており、部署は等級のバランスがよくなるように編成されるから、少数派は部署内に少数派として閉じ込められてしまう。女性や若手が、上位の等級者に対して委縮して働かねければならないのも、職能資格制度が原因である。

とは言え、ここまで根付いた職能資格制度を廃止すべきというのが暴論であるのは、よく分かる。職能資格制度にも、長期的人材育成、担当を超えた協力体制を組みやすい、柔軟な人事異動が可能といったメリットがあることも事実だ。仕事や担当によって給与が変わるとか、自分の能力をアピールして手を挙げて仕事を取るような行動が、日本人にできるかどうかも疑わしい。であれば、現行の仕組みの中でダイバーシティの段階を進める工夫を凝らすしかない。

●違いの価値を見つめる
ダイバーシティの5段階の3:多様性尊重段階は、「違いや多様性の存在は認めるが、それにどんな価値があるのかは分かっていない」レベルである。確かに、違いの価値、多様性の価値を理解できているか、実感しているかと問われれば多くの人が困ると思う。(私もハッキリ言葉にして言える自信がない。)日本で暮らし、日本企業でずっと働き続けてきて身に付くのは、違いに価値があるという発想ではなく、他者との違いを修正しようとする習慣だからだ。多様性に価値があるというよりも、同質性、全員一致に価値があると考えてしまう。異なる意見があっても、空気を読んで言いたいことをグッと飲み込むのが大切というのが日本人の流儀である。他者とは違うことを明らかにするのは勇気がいるし、場合によっては恥ずかしくも感じる。分離・統合の段階に進むには、このような習慣やマインドを乗り越えなければならない。

「違い」の価値が難しければ、「同じ」にどれくらいの価値があるかを考えてみるのも意味がある。「同じ」同士を交換しあっても何も状況は変わらないから、交換することに価値はない。全員がまったく同じオモチャを持っていたら、誰も交換して欲しいと思わないから、そこでは持っているオモチャに価値はない、というのと一緒だ。また、「同じ」モノを持っているなら、誰が使っても同じ結果にしかならないから使用価値(有用性)もない。そして「同じ」には、希少価値もない。こうしてみると、「同じ」には軋轢が起こらないという意味くらいしかなく、逆に、「違い」には交換価値・使用価値・希少性があるはずで、それを見出そうとする態度が必要だと考えられる。

そもそも、本当に「同じ」なのか?、という問いも欠かせない。厳密に一点の違いもない「同じ」という状況が、そんなにあるのだろうか。「同じ」を装うっているだけではないのか。私たちは、ついつい癖で空気を読み、あるいは習慣として「同じ」に焦点を当ててしまいがちで、相違点を無視・軽視してしまう。そのような態度は、結論を導くには手っ取り早いが、成果につながる有益な議論、本当の意味での合意形成プロセスを経たことにはならない。「同じ」は何で、「違い」は何かを明らかにし、「違い」をチャンスと捉えて焦点を当て、熟議する姿勢が求められる。

多様性尊重段階を乗り越え、分離段階、統合段階へダイバーシティを進めていくには、上記のような二つの取り組みがポイントになる。一つは、「違い」の価値を会社や職場単位で議論し、共有すること。ダイバーシティを教科書的に本や研修といった機会で学んだとしても、「違い」の価値は、自社のビジネスや組織風土に見合った文脈で理解はできないはずだ。次に、「違い」にフォーカスし、それを前向きなきっかけとして議論する習慣である。「違い」を無視して「同じ」であることにしたり、「同じ」を装ったりする習慣を脱し、それぞれが「違い」を表明し、「違い」を議論のチャンスとして前向きに捉えるコミュニケーションを習慣にしなければならない。

日本企業に埋め込まれた「シェア」と、欧米のワークシェアの違い

ワークシェアは仕事の分かち合いによって、個々の労働時間を削減しながら、全体としての雇用数を拡大しようという策で、失業率の高かったヨーロッパでうまくいった例が多い。日本でも、長時間労働の是正という観点から注目されたことがあった。ただ、確かに一つの仕事を二人でやれば、一人の労働時間は半分くらいになるのだが、同時に賃金も半分になってしまうから、なかなかワークシェアが進まない(だから労働時間が長いままだ)ということになっている。

しかし、あらためて考えてみれば、日本の会社はもともとワークシェアによって成り立っているようなものである。日本は「正社員」として雇用したら原則として解雇できないし、雇用期間の定めもないから、これから先もずっと会社にいる前提になっている。だから、仕事の量が減ったり、組織の形態や会社の業績等がどんなに変化したりしても、所属している人たち全員で仕事を分け合うのが基本である。でなければ、社内失業者(給料を払っているのに仕事がない人)が出てしまうからだ。欧米のように、仕事の質や量に応じて人が調達されるわけではなく、日本では在籍者全員に仕事が常に分け与えられ、場合によっては、無理に作り出してでも全員に仕事が行きわたるようにする。日本企業には、もともとワークシェアの仕組みが組み込まれているのである。

失業率が低い一因はここにあるが、一方で、ではなぜ労働時間が長いのかという疑問が湧いてくる。もともとワークシェアの仕組みが組み込まれているのであれば、雇用が維持されるだけでなく、労働時間も短くてすむはずだ。この疑問は、シェアという言葉の意味を考えてみると解決できる。シェアには、「分けること。分配。分担」という意味と、「共同でもつこと。共有」という意味がある。そして、欧米のワークシェアは前者であり、日本企業に組み込まれているワークシェアは後者なのである。

欧米のワークシェアとは、役割や責任や業務を明確に分担することを意味している。各々の業務が重複せず、また互いの干渉や調整ができる限り少なくなるように、明確に仕事を分け、それぞれがその遂行・達成に責任を負う。一方、日本のワークシェアはfacebookのシェアと同じように、皆で仕事や情報などを共有するという意味合いが強い。一応、分担された役割や業務はあるのだが、それぞれの範囲は重なり合っており、責任の所在もはっきりしない。だから、すり合わせを欠かさず、協調的に進める必要があり、最終的な結果に対する責任も皆で負うことになる。決裁に必要な書類にハンコがズラリと並んだり、会議の出席者がやたらと多かったり、連絡メールのCCにたくさんの人のアドレスが入っていたりするのが、分かりやすい例だ。日本の企業に組み込まれたワークシェアは、分担ではなく、「共有して一緒に」であり、これが労働時間が長くなってしまう元凶ではないかと考えられる。

皆でホールのケーキを食べようとなったとき、欧米式は切り分けるが、日本式ではケーキをホールのまま皆でつついているようなものである。どこまで食べていいか、イチゴに手をつけていいのかは、一緒に食べている人たちの様子を見ながら、話し合いながら決めることになる。仮に、ケーキを早く食べきることが目標だとすれば、欧米式は早く食べる能力に応じて切り分け、役割分担を明確にするから結果に対する貢献度もわかりやすい。皆でつつきながら食べていては、早くも食べきれないだろうし、結果は皆の責任となり曖昧なものになってしまう。

●日本型シェアのデメリット

囲い込まず、他者に仕事を振るというのは、「共有して一緒に」という日本型シェアの考え方に反している。いかなる仕事も完全には手放さず、任せるが関心は持ち続け、何かのときには手を貸そうという姿勢をとる。すべての仕事に全員が関心を払い、各々が状況変化について関係者に対する報告や連絡や相談をしっかり行う。これが、日本型シェアの考え方に合致する仕事の進め方である。その結果、上手に仕事が振れず、囲い込んでしまう人が増えてしまう。これが、日本型シェアによって生まれる一つ目のデメリットだ。

日本型シェアは、仕事への参加者が増える。最適な人数、最適な能力、最適な進め方を決めて権限を委譲し、結果責任を問うという発想はなく、多くの人間が関われば関わるほど、結果が良くなると信じているかのように、全員の力を結集して仕事を進めようとする。その結果、参加者がどんどん増えていくので、コミュニケーションが複雑になる。「聞いていない人がいる」ことは大きなミスとされるし、いつ誰にどのような情報を入れるかという“機微”のようなものが重要なスキルとなる。関係者が多ければ多いほど、物事は決まりにくくなるから、会議も増えてしまう。もちろん、多数による複雑なコミュニケーションが良い結果をもたらすなら問題はないが、多くの場合、時間の浪費・凡庸な結論・あいまいな責任といった結果に終わってしまう。これが、二つ目のデメリットである。<br>

三つめは、リーダーシップが発揮されにくくなることだ。役割や業務の分担を明確にすればするほど、担当者に責任感や結果に対するコミットメントが生まれるから、リーダーシップが発揮される。分担があいまいで、仕事が相互に重なっており、全員がすべての仕事に関心を持ち合っているような状態では、責任感が生まれにくく、従ってリーダーシップは発揮されない。同じシェアでも、「分担」はリーダーシップを促すが、「共有」はリーダーシップを抑制してしまうのである。<br>

最後に、シナジーも生まれにくくなる。相乗効果は、異なる利害や主張を持つ者同士が、いかにして互いに満足できるwin−winを実現するかというプロセスから生まれる。逆に、もともと同じ意見を持つ者同士がいくら話を重ねたところで、新しいアイデアは生まれてきにくい。明確な役割や業務の分担とは、組織に異なる立場の者を作ることなのであり、立場や見方が多様になった結果としてシナジーが生まれるようになる。「共有して一緒に」とう仕事の進め方をすればするほど、皆が同じ見方・考え方をするようになってしまう。そのような組織には、シナジーは期待できない。

●切り分ける力

とはいえ、日本型シェアをやめてしまうのは無理だろう。皆が同じ情報を持ち、仲間外れがないように、全員の合意形成に基づいて丁寧に物事を進めていくのは、仕事に限らず日本人の行動様式であるし、仕事がないからと言ってクビにしたりせず、また社内失業が起こらないように仕事を与え続けるようにするのは、日本の労働法制や労働慣行の要請によるものであるからだ。

重要になるのは、中間管理職層の「シェア」に関する考え方の転換だ。

まず、自らの権限や責任まで、上位者や部下とシェアするような態度はやめるべきである。上位者への相談を重ね、その回答からいろいろと忖度して物事を決めたりするような態度は、自らの権限や責任を上位者とシェアしているのと同じである。また、部下の意見や意向をいろいろとヒアリングし、自らの意見との調整を図って最大公約数を結論とするような態度も、自らの権限や責任を部下とシェアしている。このような態度は、そのポジションに本来、求められているものではないだろう。

次に、「情報の共有」に価値を置きすぎないことである。何でもシェア(共有)すれば、自分もメンバーも安心するのは間違いないが、成果が上がるというものではない。何でも共有するようにという指示は、会議を増やし、コミュニュケーションを複雑にしてしまう。報告・連絡・相談の上手さが仕事ができる人であるかのような錯覚をメンバーに抱かせ、せっかくの多様な才能をつぼみのまま萎ませてしまいかねない。

仕事を切り分ける力、欧米型のシェア(分担)をする力を身に着けるのも大切だ。各々の職務を明文化し、期待する成果の内容を細かくしっかりと約束し、結果に対する責任を問い、説明を求めるようにすることである。「曖昧な分担と綿密な共有」というスタイルから、「明確な分担と、異なる立場同士の葛藤」へマネジメントを転換する。それによって、各々のリーダーシップと組織のシナジーが期待できるはずだ。

タレント・マネジメントが、全くうまくいかない理由

自社内にいる人材が持つスキルや能力などを個別に把握することによって、各業務にもっとも適した人材を配置できるようにするとともに、個別にその能力の開発計画を立案・実行しようとするのがタレントマネジメントだ。感覚やイメージで人の配置を決めたり、個別性に配慮せず画一的な教育を施したりしていては駄目だということで、ここ数年、これに熱心に取り組む企業が増えた。

構想としては、@職種別・階層別に必要な知識・スキルを定める、Aそれらを満たしているかどうかを個別に評価する(又は各自にチェックさせる)、Bその結果をまとめて人材のデータベースを作る、C異動暦や保有資格などの従来のデータベースと合体させる、D検索性を高め、人事異動や教育研修にそのデータベースを活用する、ということになる。一見、うまくいきそうなのだが、データ量が膨らんだだけでほとんど利用されないケースが非常に多い。利用されている企業でも、従来の人事異動や教育研修から進化した実感はあまりないだろう。理由はその取り組み方において、日本の伝統的な人事のパラダイムである「標準化主義」を脱していないからだ。

「@職種別・階層別に必要な知識・スキルを定め、Aそれらを満たしているかどうかを個別に評価する」という発想は、上司や人事が理解できる範囲内の「特徴のない標準的な人材」を作ろうとしているのに他ならない。標準化主義は、弱みがなく、ソツなく何でもそれなりにこなせる人を良しとし、得意を伸ばすより苦手を克服させようとする。その結果、任せて安心の『普通の人』が量産されていく。『普通の人』たちのデータベースが出来上がる。ここで問題が生じる。『普通の人』をどう活用するのか?(皆が普通だから、誰を任命しても大差ない。)『普通の人』の能力開発をどうやって進めるか?(結局、これまで同様の画一的な教育研修を施すしかない。)

タレントマネジメントへの取り組みは、多くの会社で、従来の人材データベースの量を膨らませた程度に終わっており、人を活かし育てるという本来の目的にはほど遠い状態にある。人材データを管理しやすくなるシステムを作っている会社が儲かっただけで、働く人達や経営には今のところ、まったくいいことがない。重要なのは、@〜Dの手順にこだわってシステム構築をすることではなく、染み付いた「標準化パラダイム」を転換することである。

●タレント=強み
タレントを「人材」と曖昧に理解してしまうから、標準化主義によって人材が「普通の人」になってしまい、その活用や育成がうまくいかない。タレントとは「才能」である。才能とは、標準化された知識やスキルではない。上司や先輩たちがやってきたことを出来るようになった状態を指して、才能があるとは言わない。才能とは差別化された強みだ。他の人には出来ないことが出来る、他の人にはない知識を持つ、他の人が見えないことに気付くといったスキル・能力である。タレントマネジメントは、差別化された強みに焦点を当てなければならない。標準化パラダイムとは、真逆の発想だ。自社内の人材の多様な(それぞれ差別化された)強みを伸ばし、それを把握し、業務や状況に合わせて組み合わせることである。

タレントマネジメントは、ドラッカーが述べたことの実践とも言えるだろう。「何事かを成し遂げられるのは、強みによってである。弱みによって何かを行うことはできない。もちろん、できないことによって何かを行うことなど、到底できない。」「成果をあげるには、人の強みを生かさなければならない。弱みを気にしてはならない。利用できる限りのあらゆる強み、すなわち同僚の強み、上司の強み、自らの強みを総動員しなければならない。」「人の強みではなく弱みに焦点を合わせる者をマネジメントの地位につけてはならない。人の出来ることは何も見ず、できないことは全て知っているという者は、組織の文化を損なう。」「組織の役目は、人の強みを成果に結び付け、人の弱みを中和することにある。」

強みに集中することを力説したドラッカーだから他にもこのような言葉は沢山あるが、これらの言葉を「名言」として片付けてしまわず、タレントマネジメントの仕組みづくりや運用にどう活かすかが問われている。標準化によって強みは生まれない。従って、標準化は成果を生まない。弱みに焦点を当てる標準化は人を元気にしないし、成長にもつながりにくい。弱みは組織でカバーすればよいのであり(それが組織の存在意義である)、個人に弱みの克服を迫るべきではない。タレントマネジメントは「強みに焦点を当てよ」と言い、多くのビジネスパードンに影響を与え続けているドラッカー理論の実践と位置づけるべきなのである。

●強みに焦点を当てた、タレントマネジメントの実践
強みに焦点を当てたタレントマネジメントは、以下の3ステップによって実現する。
一つ目は、「強みづくり」だ。強みは、本人任せで何もしなければ、それを発見・自覚できない。弱みは本人にも周囲にも分りやすいが、強みは自分でなかなか見つけられない。したがって、それぞれが強みを発見し、それを自覚するよう促すのが上司や人事部の役割となる。振り返り面談、他者からの評価、アセスメントツールの結果などから一緒に強みを探していく。強みを発見・自覚できれば、それを伸長していけるように支援する。選択型の研修制度も、強みが自覚されないから受講者が増えないのであって、強みを自覚し、伸長させるという目的があれば、受講意欲も格段に高まるはずだ。

ここでは、弱みに触れるべきではない。弱みに触れるだけで、強みに焦点が当らなくなってしまうからだ。また、強みを「○○の知識」「○○力」などで分類すべきではない。それこそが標準化パラダイムのなせる業で、本人の自覚とは異なる表現になりがちだし、他者と差別化されたものにはならないからだ。強みは、本人の言葉で定性的に表現されたもので構わない。

二つ目は、「強みの周知」である。強みを持つ個々が、自分だけ、自分の部署だけに埋もれていては組織全体で効果的に活用されることはない。だから、誰がどのような強みを持っているかを、組織全体に対して発信・表明する仕組み(システム)が必要になる。自社内にどんなタレントがいるのかを、人事部だけではなく全員が分るような仕組みだ。何かに困ったときにアドバイスやサポートを求められる相手が身の回りの人たちだけという状況では、強く柔軟な組織とは言えない。それぞれ差別化された強みを持つタレントたちが全社の様々なところにおり、彼らを探し出して助けを借りられる状況を作るようにする。当然、うまく探し出せないケースもあるだろうから、強みを募集する仕組みも要る。部門の枠を超えた協調的な仕事は、強みの発信・表明の仕組みと募集の仕組みの両方を機能させるのがポイントである。

三つ目は、「強みの柔軟な活用」だ。会社・人事部が行う定期的な人事異動が、顧客本位のタイムリーな組織編制を常に実現しているわけではない。今の体制が、顧客が求める内容やスピードに常に適しているわけでもない。顧客が求める内容を顧客が求めるスピードで提供するには、上司や本社が介入することなく、担当者が組織の枠を超えて全社から強みを調達し、自らチームを編成するくらいの柔軟性が必要だ。そうすることで、顧客満足を高めるとともに、せっかく持っている強みが発揮できない仕事についている人も減るだろう。部門長による囲い込みやセクショナリズムによって、強みの活用が阻まれるような状況も避けなければならない。

強みに焦点を当てたタレントマネジメントを実現するには、働く側の意識も変えていきたい。強みがなくても仕事は与えてもらえるものという「宮仕えパラダイム」、上司や先輩と同じように出来たいという「同質化パラダイム」は、そもそも強みに焦点が当っていないからタレントマネジメントが機能する可能性は低いだろう。謙虚は美徳、アピールは下品といった考え方も、強みを周知するのが難しくなるからタレントマネジメントの大きな障害になってしまう。

「クリエイティブ・クエスチョン」のススメ

藤井聡太七段は、「詰め将棋」を解く力では既にプロ棋界でもナンバーワンである。しかし、トップ棋士には対戦成績があまり芳しくないことでも分るように、将棋の勝負ではまだナンバーワンではない。これは、詰め将棋が「正解のある具体的なクイズ」であるのに対し、将棋は「具体的な指し手を考える前に、状況判断や方針の立案などの抽象的な思考が重要になる勝負」であるからだ。詰め将棋では「何をすべきかが指示されており、それをいかに速く正確に行うか」が重要だが、将棋の勝負においては「何をすべきかを自分で導き出す力」が重要になる。詰め将棋は「問いに答える力」、将棋の勝負は「問いを作る力」がポイントになると言ってよい。

「問いに答える」には、論理が求められる。指示を速く間違いなく遂行するには、モレや見落としがあってはいけない。また、形や決まりを覚えておくのも大切である。こういう時はこうするものというパターンや定跡を知っていれば知っているほど、(いちいち考えなくてもいいから)早く正確に答を導ける。その意味では、数をこなして慣れておくのも重要で、パターンを身体で覚えて無意識に近いほどの感覚で処理できるようになれば、たいしたものだと評価される。

「問いを作る」には、グランドデザイン(大局)を描く力が求められる。将棋で言えば「現状は有利か不利か」「ペースはどちらにあるか」「互いの経験値はどうか」「勝つとしたらどのような形か」といった視点から、今、どのような方針のもとに指し進めていくのが良いのかを考える。これは、論理ではなくクリエイティブな思考である。感想戦(勝負がついた後に両棋士が感想などを述べ合う時間)の会話では、「方針を間違った」「大局観がおかしかった」といった声が聞かれるが、そもそもの「問い」が誤っていれば具体的な指し手も正しく導けないということだろう。

仕事においても、同じことが言える。「問いに答える力」ばかり磨いても、ビジネスをリードできるレベルにはなれないし、優れたキャリアを築いていくことはできない。(私が、詰め将棋のトレーニングをいくらしても大会で勝てない状況にあるのと同じだ。)たしかに、上司や周囲からの指示・要望に対して、いつも速く正確に遂行・リアクションできる「問いに答える力」のある人は優秀だと認められやすい。どんな球が飛んできても、しっかりと芯で打ち返せるバッターのようで、構えにもスキがなく安心してその業務を任せることができる。しかし、そのような「答える力」だけでは、ただの職人でしかない。(一流の職人はそうではない。)

「問いを作る力」がある人は、「この仕事の目的は何か」「顧客は誰か」「誰にどのような価値を提供しているのか」「新たな技術や知識を応用できないか」「他の仕事と組み合わせたり、再構築したりできないか」「意味希薄で止めるべきことはないか」といった観点から仕事を見直したり、目標と現状のギャップを常に意識しながら方針や行動の修正を図ろうとしたりしている。そこには、自分の仕事を見つめなおすための新たな視点を持ち、問題を発見しようとする態度がある。問題の発見を上司に依存しない、自立や当事者意識がある。熟練していく過程で得たものや、前任者や世間一般の考え方に縛られず、盲目的にならず、健全な懐疑精神を持っている。ブレークスルーや改善を実現しようとする欲求が感じられる。仕事も組織も各々のキャリアにおいても、「問いを作る力」によって進化・向上していくのである。

●熟練者は「問い」を恐れ、面倒がる
あらゆる業務は、時間とともに進め方ややり方が定型化されていく。それは効率の観点からは重要だし、初心者はまずこれらを熟知し熟練していくべきだが、環境や技術的な変化はいつか必ず起こるので、その変化に合わせて目的も対象者もやり方も見直さねばならない。でなければ、その仕事の価値はどんどん低下していく。

ところが熟練者というものは、往々にして自らの旧いフレームや手法にこだわり、状況変化に鈍感になったり、かたくなになったりする。「問い」は現状を否定的・批判的に見る視点を含みがちなので、熟練者ほど「問い」を恐れることになる。また「問い」は、熟練者も含めて居心地のよさに安住している人にとっては、極めて面倒なコミュニケーションだ。つつながなく回っているのに、なぜ、目的だ価値だといった“そもそも論”を吹っ掛けられなければならないのか。余計なお世話だと思うだろう。「問う」側にはそんな気持ちが伝わってくるから、だんだんと熟練者にモノが言えなくなってくる。面倒くさい人だと思われたくないから、「問い」を立てなくなる。

上司にとって熟練者は頼もしい。だから、熟練度をもって「優秀」としたくなる。が、「問いを作る力」がなければ熟練者がいくらたくさんいても、現場が主導するイノベーションは起こらない。熟練者は「問い」を恐れるし、「問い」とは面倒なものなので、優秀な熟練者が増えれば増えるほど、「問い」が減少していき、その結果、仕事の価値が徐々に低下していく。もちろん、熟練者を育てていくことが大事な仕事であるし、熟練度をもって「優秀だ」とするのは合理的である。大切なのはこのジレンマを理解し、熟練者に対してさらに上の能力としての「問いを作る力」を求め続けること、また組織として「問いを作る力」を養い、問いのあふれる現場を作ることが肝要なのである。メンバーの仕事は、「マネジャーがどう問いかけるか」によって左右されると言ってもよい。

●「問い」とは何か
「問い」とは、仕事の状況をヒアリングするような単純な質問のことではない。報告・連絡・相談といった類の話でもない。「問い」とは、『“顧客や環境”と“自分たちの仕事の提供価値”について大局・高所・本質から捉え直し、最適な状態を目指すきかっけを創ろうとするもの』である。それは、仕事にミスやモレがないようするためのコミュニケーションに比べて、はるかにクリエイティブだ。正解がなく、誰もが容易には回答できない困難な質問である。人によって見方や考え方が違うから、合意にはパワーを要するし、そのプロセスは創発的でなければならない。「問い」とは、日常的に発せられる質問とは異なる「クリエイティブ・クエスチョン」である。

質問を以下のように分類すれば、「@創造のための問い」が、クリエイティブ・クエスチョンに当たる。現状について健全な懐疑精神を持ち、ゼロベースで環境変化や顧客価値の観点から、仕事を一緒に考え直してみようとする問いである。



それ以外の問いは、クリエイティブ・クエスチョンではない。「D把握のための問い」は、もっぱら単なる業務管理者によってなされる質問だ。「C相互理解のための問い」は、良好な関係や空気の中で仕事を進めようとする人達が得意とする。「B診断のための問い」は、上司が部下を育成しようとする際や、他部門や他社とのジョイントで業務を進めるケースの前段でなされる。「A協調のための問い」は、チームでシナジーを生み出そうとするものである。

変革を担う者は、クリエイティブ・クエスチョンを投げかけるスキルと姿勢が必要だ。生産性向上への努力も、クリエイティブ・クエスチョンがなければ微小な改善にとどまるだろう。組織や人を進化させつづけるマネジャーは、クリエイティブ・クエスチョンを上手に投げかけている。自律的に進化する人材は、クリエイティブ・クエスチョンを自らに投げかけるとともに、「私は今、どのような問いに答えようとしているのか?」を忘れないので、日常の業務に埋没し、思考停止に陥ることがないのだ。

バリューワーク(価値ある仕事)をしよう

キャリアとは、積み重ねてきた仕事やその結果の軌跡である。キャリアはどのような仕事をどれくらいやってきたか、つまり「仕事の価値」と「仕事の量」によって評価される。キャリア=「仕事の価値」×「仕事の量」だ。注意すべきは、掛け算であることで、価値の低い仕事をいくら沢山やっても高い評価はなされない。従って、キャリアを考えるときは、その仕事の価値に着目することが重要になる。

では、仕事の価値をどのように考えるべきか。

まず、仕事の価値は職業の名称とは一致しない。医師だから弁護士だから社長だから、仕事の価値が高いとは限らない。逆に、定型的な業務だからといって仕事の価値が低いとは限らない。なぜなら、仕事の価値は自分が決めるのではなく、顧客や関係者によって評価されるのが原則であるからだ。ステイタスのある職業に就いていても、顧客や関係者から評判の芳しくなければ、その人が行っている仕事の価値は低い。誰でも出来そうな職業であっても、余人をもって代えがたいという評価を得る人の仕事の価値は高い。

また、時代が変われば、職業のステイタスも変化していく。どんなにステイタスが高かった職業でも、供給が過多になったり、知識や技術が陳腐化したり、社会的なニーズが希薄になっていけば、そのステイタスは低下する。仕事の価値は職業の名称とは一致しない。私達は、自分がやっている仕事は、顧客や関係者にとってどのような価値があるのかを常に考えなければならない。

同じ仕事でも、取組み方によってその価値が変わるという点も重要だ。仕事への取り組み方は、その目的に左右される。目的を高く、明確に持って取り組むことで、やっている仕事の価値を上げることが可能になる。

コンビニエンスストアには、お客様の顔とその人が頻繁に買うものを覚えている店員がいる。そういう人は、お客様にさわやかな声がけができ、お釣りや商品の渡し方も素早くスムーズである。一方で、ただレジの作業をしつづけているだけの人がいる。この差は、器用さや経験というより、それぞれが抱いている目的に起因する。前者の人の目的は「気持ちよく、ストレスなく、お店を利用していただくこと」で、後者は「マニュアルに沿って、間違いなく商品とお金のやりとりをすること」といったところだろう。目的が仕事上の言動を大きく左右するとともに、前者が「顧客にとっての価値」を重視しているのに対し、後者の思考には「顧客」が存在していないことも分かる。

仕事は、毎日 全然違うことをしているわけではないので、どうしても繰り返しの中でマンネリ化が避けられない。どのような仕事であれ、熟練すればするほど事態をパターンで認識し、既存の引き出しで対応できるようになるから、だんだんと刺激や面白味に欠けてくる。また、熟練度合いが低い人、やらされ仕事で面倒を感じている人、保身を第一に考えるような人といった場合は、仕事をミスなくつつがなく行うこと、仕事を指示通りに進めることが目的化してしまいがちだ。いずれのケースでも、「自分がやっている仕事は、顧客や関係者にとってどのような価値があるのか」に注意を払っておかねければ、仕事の目的が曖昧で希薄になっていくため、仕事の価値は低下してしまうことになる。

●価値の低い仕事とは?

自分の仕事の価値を高めるのと同時に、価値の低い仕事に気付いたら見直さねばならない。価値の低い仕事は、価値の高い仕事に割く時間を減らし、心身を疲弊させるからである。では、見直しが必要な「価値の低い仕事」とは何か。

@顧客や社会の変化に対応しない、昔と同じやり方の業務
A工夫や改善が見られず、同じように繰り返されている業務
Bルールや前例に固執する、柔軟性に欠けたお役所仕事
C勉強不足・情報不足、自前主義の平凡な仕事
D現場の付加価値時間や活力を奪う、過度の規制や監視
E組織や人のシナジーが感じられない、内向きの業務
F意味や目的が曖昧な、儀礼的・慣習的な業務や会議

社会や顧客は変化し、知識や技術も進歩していくから、昔に良かったものがずっと通じるわけではない。昔に価値があった仕事が、ずっと価値を保ち続けるはずはない。したがって、@〜Cにあるような旧態依然の仕事の価値は、どんどん低下する。D〜Fは組織に関わるものだが、顧客にとっての価値を高めるには、組織の様々なルール・仕組みを柔軟に変更し、働く人たちが協調しながら顧客に向き合う時間を増やし、顧客への対応力を高める努力が欠かせない。

社会や顧客の変化に合わせ、顧客や関係者のニーズに焦点を当てて、「自分がやっている仕事は、顧客や関係者にとってどのような価値があるのか」を常に考えながら、高く明確な目的を持って取り組む。これが価値ある仕事“バリューワーク”である。一方、@〜Fのような、内向きで旧態依然の仕事は“ノン・バリューワーク”と言えるだろう。“バリューワーク”に時間を割き、“ノン・バリューワーク”を取り除かねばならない。良質なキャリアは、バリューワークを積み重ねることでしか獲得できないからだ。